砂時計のくびれた場所

競馬の血統について語るブログ

キャンドゥナウ

いつやるの?

いまでしょ!

というセリフ。よく聞きます。


チャゲアスにも「can do now」という曲がありまして。

チャゲアスを聞き流してるとやはり「おっ」となる曲が数曲ございます。

それは知っている曲だとかそういうものではなく、

「こいつは(チャゲアス的に)イレギュラーだぜっ!」ていう理由。

その筆頭にあげられるのがやはりこの曲。「can do now」。

can do nowの歌詞

歌詞自体は随分と抽象的。

実際にストーリーがあるわけではなく

一人の男が目覚まして見た夢を想起してあれこれ考えるだけ。

結果として「今。今やるんだ。」と決意する。

「祈りのように指を絡ませてはつぶやく I can do」

「滴る水のようにつぶやく I can do now」

(「隙間をみたすようにつぶやく I can do now」)

とサビはある。

ように、ていうんだから祈ってるわけじゃない。

多分苦悩してるんでしょう。

そしてもう一度つぶやく。次は「now」がついてるわけです。

今、と継ぎ足して決意を後押しする。

やはり大切なのは「悩んで、悩んだ先に決意がある」て事じゃないか、と。

幽遊白書でもあったなぁ。

幽助に「強くなりたきゃ私を殺せ」と幻海が言う奴。

殺せない、と長く悩んだ後に言ったら合格、と。

殺す、と言ってたら不合格だった、と。

「だからといって全く悩まずに殺せない、という奴も

 (殺すと答える奴と)同じくらい嫌いだがね」

ってね。

俺も小説読みたての頃とかは「内容が薄い」とか

こっ恥ずかしいことをアレコレ言ってたけれども。

そもそもそういう事じゃ「ダメな理由」にならないんだよなぁ。

薄い事は悪くない。どうやって薄めるか、ってことなんだ。

味噌汁作りに例える。

味噌汁の重要なことってのは「味噌の味がする」てことだ。

味噌、これが最重要。

それじゃお湯に味噌を溶けば味噌汁か?そうじゃないだろう。

出汁があり、具があり、そして味噌を溶かすタイミングがある。

そしてそれを食卓に運ぶまでどうやって適温を保つか。

色々なことが重なって「おいしい味噌汁」てのがあるんだ。

キャン、ドゥ、ナウ。

ただ「決意する」、本当にそれだけの歌だ。

決意を後押しする言葉があって、夢があった。

そして苦悩から脱して(あるいは苦悩しつつも)前に進む、

その決意は出来たんだろう(と推測する)。

俺が「内容が薄い」と酷評したのは当時流行りの「携帯小説」だった。

よくよく考えるとあれは味噌の量に対し具が多かったのだ。

「具が多けりゃ美味かろう」と浅はかな考えすら見えてくる。

そんなのは男が食う男の料理だけで十分なのだ。

朝餉の味噌汁のような繊細な料理にゃ不向きである。

別に味噌汁作りが繊細なわけじゃない。

朝の胃袋の調子は掴みづらいし、朝だから時間も貴重だろう。

作り始めから食い終わりまでの時間を上手にコントロールしなきゃいけない。

そういう繊細さだ。朝っぱらから大根キャベツ豆腐じゃがいも豚肉…

と大量の具を入れようなんていくらなんでも無謀だろう。

そして朝の味噌汁はキャベツと卵、あるいは油揚げと豆腐、この二つしか許さん。

あとじゃがいも豚肉、これは豚汁(ぶたじる)だ。

とん汁、だなんて澄ました顔で言う奴がいたらぶん殴ってやるっ!

濁音の多さで雑把な料理を表現する「ぶたじる」が一番良い呼び方なんだっ!

あんなの出汁に肉入れてじゃがいも入れて酒入れてぐつぐつ煮込んで・・・

そして火止めて味噌をガガガガガーと溶いてしまえばいいんだからな。

そう考えりゃ「恋空」なんてのは豚汁(ぶたじる)としては優秀だったんだなぁ。

ったく、澄ました顔で(美味しい味噌汁ですよ)みたいな売り方するか反感を買うんだ。

カテゴリ「小言」なのに小言じゃなくなった

今の俺には味噌がねぇ。

具は少ねぇがよ。これは普段から買ってないから仕方ねぇ。

ただ、今は味噌汁が必要だ。美味かろうが不味かろうが。

味噌が入った味噌汁が。

[fin]