砂時計のくびれた場所

競馬の血統について語るブログ

愛する人に愛されて

Askaのファンに対する線の引き方というのは・・・うん、特殊というべきなんだろうか。これはアーティストがそれぞれで持つものだから特殊とか特別とかではないだろうし、単純率直に冷たいとでも書こうか。

この人って昔はアイドルだったんだと思う。でも今・・・まぁ2000年に入ったころかな。あるいは90年代からかな。ある時からファンと彼の関係はパトロンと音楽家の関係になってる。そのたぐいの責任感を多少なり抱いたんじゃないかな。これをプロフェッショナルというのも間違いでもないけれども・・・。

違うのはあくまでも自分の世界を見せることだわな。どこまでも彼の曲は独り善がりだ。プロ根性ならある程度の迎合があって然るべきだが「俺についてこれないならパトロンをやめればよい」という多少の傲慢さがある。彼はアーティストだ。

すると多少なり「俺を認めろ」っていう感情があるはずだ。でも彼は面倒くさいから「理解されたくない」という思いもあるはずなのよ。誰の理解も及ばない崇高なる我を認めよ、ってわけよね。でもこのこっ恥ずかしい感情を彼は理解しているし、歌の中においてはその感情が許されることを知ったのだわ。

でもChageとしてはそれは許せなかったんじゃないかな。Chageソロはあまり聞かないからわからないけれども、彼はアーティストじゃなくてプロフェッショナルだと思う。自分の音楽を理解して愛してくれる人たちへの感謝があるのでは。だから時に傲慢な彼にたいしてデュオの体制はとれなかった。

Askaとしては自分の音楽をすれば人は喜んでくれると思っている。

Chageとしてはファンの望む形に多少なり迎合しなければ喜んではもらえないと思っている。

それは生来のものというよりヒットへの経過だろう。前にいたはずのChageがいつのまにか裏方に回っている。その時の心の整理というか折り合いのつかせ方はファンを頼ったものだったはずなんだ。その苦悩をAskaも汲んでいるだろう。だからこそ自分の音楽を貫かなければならなかった。多少の迎合を以って得たその時の立ち位置をそれ以上曲げることが出来なかった。

事務所のこともあるしね。セールスの関係上Chageに真っ直ぐいかれてもAskaに曲げられても困る。だから二人はソロ活動を始めるしかなかった。自分が曲げずにいられる1人にならなければならなかった。あるいは自分を曲げられる1人に。

彼ら自身をファンに見せて、その中で自分の立ち位置を理解する。その果てがAlive in LiveとDouble。この直近のチャゲアスライブは二人の立ち位置が明確に見えてしまう。一度曲げた道を真っ直ぐと歩んだ彼らは交わることがなかった。

ファンが悪い。一度曲がった彼らを愛してしまった。だから二人はもう一度曲がることが出来なかった。そして彼ら自身も曲がる勇気を持つには年を取り過ぎていた。

[fin]