ホテルへ戻ってすぐにスーツへ変装を遂げる。同じく参席する友人と待ち合わせた。
待ち合わせたが、一人徒歩である。それも良い。
先んじて式場へついたのだが、地元の友人枠とは孤独なものである。特に俺は音信不通の癖を持つ。7月の結婚式では誰が来るかも分からず、今回の新郎と顔を合わせて「よかったよかった仲間がいたぞ」とお互いに安心したものだ。また遠方での結婚式とは大概にしてそういうものらしい。
孤独にあったが、幸いにして古い友人がやってきた。知り合ったのはおそらく小学のころであり、友人と言えるようになったのは中学のころだったと思う。友人のグループというのが、やはりあり、それを別にした友人である。なので親密というほど親密ではない。だが気のおけない間柄だと思っている。
しばらく昔話に花を咲かせた。別行動を取った友人らも合流し、またしばらく歓談に沸いた。
挙式の準備が整ったとのことで、チャペルなのか教会なのか、その中へ入る。当然、そこには新郎の家族がある。みな、家へ遊びに行けばお世話になったものだ。一人は懐中電灯でモールス信号を打ち合えるというほどの近所同士であるし、一人は新郎の弟と高校が同じである。また前回書いた様に母親同士の付き合いもある。新郎の家族とやいのやいのとやり取りした。
挙式が始まると、面白くなってきた。新郎は一体どんな顔をして来るのだろう。もちろん幸せを祝う気持ちも強いが、「あの男が結婚」という思いもまた強いのである。二十歳を過ぎて社会人になり、それも地元から遠く離れた群馬で就職ということになるとギャップがどうしても起こる。家族間ですら少なからず生じているだろう。
現実味がないのである。そういえば、幸せと現実は相反する言葉なのかもしれない。
新郎の気持ちもおそらくフワフワしていただろう。婚姻届に判を押そうが、こうして式をあげようが、それが男にとっての現実となるのは、子どもを見たその瞬間なのかもしれない。それも人によるのだろうが・・・。
同棲だとか、婚前交渉だとか、そういったものを古臭いとするのは早計なのかもしれない。型に嵌めてしまう前にこういったイベントをこなしてしまうと、現実へ向く機会を損なうのではないか。大きな変化とともに責任を背負わさなければならない。迷いを覚えさせてはならないのだ。
披露宴の途中でタバコを吸いに出た。新郎の挨拶を行った上司の方と一緒になったのだが、その方はどうも今の結婚式に対して違和感が拭えないらしかった。紹介を新郎が担当したこと、挨拶の前に酒で口を湿らせられること、あと仲人がいないこと。
決して批判的な言葉ではなく感嘆の念であったのだろうか。俺の人生経験では想像が難しい。不満を心に秘めていた可能性は否めないし、比較対象を多く持たないために戸惑っていたのかもしれない。しかしそういった事を話して下さったことはありがたいと思う。年長の方の言葉は大抵の場合において未知への入り口となる。
実際問題、昔の結婚式に新郎はプレッシャーを強く感じていたのではないだろうか。「年貢の納め時」と物語ではよく冗談で言われているものだが、それを親戚や上司らからきっちりと追い詰められるのである。家を繋ぐ・・・というほど昔ではないだろうけれど、今よりずっと「社会人として、家族人として、シャキッとしろや!」というメッセージが強そうである。
だが、既婚の友人の言動を考えるときちんとそのプレッシャーを飲み込んでいる様子がある。未婚のままというのは、女を捕まえられない不甲斐なさ以前に、背負っている荷の重さに人間性が見えてしまうものかもしれない。社会に立場があるならともかく。
今の温かい結婚式の方が友人枠としては参加しやすいのだが。どんなものかは自分が経験しなければ分からないだろう。傍から妄想するにはこんなことを思ったが、実際にはそう変わらないプレッシャーにさらされているのかもしれない。そうなった時、もう一度このことを考えさせられるはずである。考えさせて欲しい、神様。
披露宴では美味しいものに舌鼓を打ち、例によってウィルキンソンの辛いものを要求した。結婚式とは美味くないものを食べるだと考えていたが、栃木にて行われた二度の結婚式では美味しいものしか食べていない。祝儀足りてないかな、と本気に考えてしまうのだが、「それはお互いの身を滅ぼすから」と7月に披露宴を催した友人にアドバイスを受けた。それもまた自ら実感すべきことだ。「あぁ、こういうことなのか」と思わせて欲しい、神様。
また披露宴では余興にムービーが上映された。動画やHPなどの製作会社をやっている友人が作ったもので、クオリティの高さに驚いた。二十にもならない頃のクオリティしか知らなかったために自分でも大変な言動をしていたと恥じた。自分は、そのことに関して何か言える様な立派な人間ではなかった。
その上映の最中に新郎は泣き始めたのだが、その理由はうかがい知れない。神様が俺の願いを叶えてくれたときに、酒でも飲みながら本人へ訪ねたいと思う。
終えて、二次会へ向かう。新郎新婦も参加してくれたことは嬉しく思った。参席してよかったと思う。誘ってくれたことにも感謝している。
何事にも終わりがある、そう強く9月には思った。この面白い友達付き合いはいつまで続くものだろうか。いつ終わるかも分からない、何かの拍子に全ては終わるだろうし、何かの拍子に永遠のものともなるだろう。これはおそらく、あだち充の描く漫画における主題だ。
一体なにがどうしてこんな友人を得たものか。積極的な友達作りもせずにこんなものを得たのだから随分と恵まれている。異性が捕まらないのも仕方がないかもしれない。
[fin]