砂時計のくびれた場所

競馬の血統について語るブログ

ふと考えること

競馬の血統と仕事の組み立てはおおよそ似ている。

例えば大前提としてPrincequilloがある場合、迎え入れるべきは「Nasrullah、Turn-to、Bold Ruler」群と「Ribot」、「米血統の異系としてあるRoman」などなど候補がある。ナスキロを狙いに行けばまた候補は多くあるわけであり、それは今より前の、あるいは後の組み立てと関係があるだけで作業そのものは大きく変わらない。最適なものを選ぶだけ。

並より10年ほど社会への進出を遅らせた俺にはそういった繋げ方しかない。でもこういったことが出来る最低限の頭脳と、有り余った時間を読書や血統論といった、受動的に過ぎるアニメ鑑賞だとかではなく、マシな趣味に傾ける素養を育んでくれた両親に感謝する。

それにしても血統論とは楽しいものである。全てがこれから展開出来るのではないかと思うくらいであって、万事が血統一事が血統という具合に今を過ごしている。運転中に強引な割り込みを食らっても「東京の1角では日常茶飯事だな。あいつはこれから福永祐一エピファネイアと呼ぶ。」とか独り言して笑っている始末。面白いネタと思って書いてみたのだけれど、怖いな。

最近ようやくASKAの新盤を聴いているのだが、評判通りの良いアルバムであった。間に合わせのものではないし声の質も良化している。これは良いASKA

この人も色々とこれからも言われ続けるのだろうが、(血統)ファンとして気になるのは「ASKAとお薬はニックスであったのか」、「薬があったからこそASKAはアーティストたり得たのか」、「薬を求めるほどの繊細を持つからこそASKAは天才であったのか」、という血統的観点におけるASKAとお薬の関係である。

ニックスというのはつまり相乗効果である。北米の種牡馬絶対王者が常にベストサイアーということはなく、G2勝ちという程度でも良い種牡馬は多くある。組み合わせの妙ということであるから、例えばASKA×コカインよりもASKA×アンナカが良いのかもしれず、これはASKAの才能において最も褒めるべきは、セルフブリーディング(造語)における分野であろう。

ASKAが常にお薬を求める種牡馬である、という考え方は、これだけではひどいものがあるので説明に言葉を多く使いたい。これは例えば「テニスの王子様」の河村君がラケットを持つと豹変するのと同じことであり、河村君はラケットがなければテニスが出来ないわけではないが、ラケットがあった方が破壊力は高いのである。河村君の素質を引き出すにはラケットが必要であり、おそらく彼が長じて寿司屋として本格化を遂げたとしてもラケットを手放すことは出来ない。それと同じようにASKAもお薬があった方がアーティストとしての素質をより引き出せるのではないかということだ。

この二つは似ているようで違う。ニックス理論におけるASKAの方がアーティストとしてお薬への依存(人としての依存とは違う)度は高いと言えて、大体40%ほどをお薬に頼っている状態だ。ただアンナカほどの安価なお薬をニックス相手としているASKAは非情にコスパが良い種牡馬であり、このニックスによってサイアーラインを伸ばしていくはず。

タカさん理論におけるASKAはあくまでもアーティストぶりを自身の中に内包しているわけであり、それを最適化するための手段としてお薬(ラケット)がある。バーニングしてはいるがお薬に才能を依存している状態ではなく、代わりのきく関係と言える。(タカさんはラケットなしでもバーニングする)

最後の一つ、あくまでも薬は結果としてあるだけである。才能もその発芽も全てASKAの中に完結している。むしろASKAをとりまく環境がそれを阻害しているわけであり、それを除くためにお薬を必要としたという考え方。ウォーエンブレムが好みの相手としかラブラブしたくなかったのと同じことであり、人間社会における馬にとっては余計な要求がこの馬の神経をより繊細とした。だがラブラブしたい相手だけから多くの活躍馬を輩出したことを考えると、その本能は血統論を超えて正しいものであった可能性もある。その場合はASKAも「俺はアンナカとしか良い曲を生み出したくないんだ」というよくわからない理屈が成り立つ。

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