砂時計のくびれた場所

競馬の血統について語るブログ

血統を考える時に考える事

奇跡を信じてルドルフの血統を見続ける日々を過ごしている。

評するということは、つまり、貶すか褒めるかだ。この2つの緊張と緩和によって文章は作られる。しかしシンボリルドルフくらいになるとどんなものでも褒めるしかないような気がして、堪らない。俺はもっと偉そうに貶してやりたい。

それはもう貶めるためだけに俺は日々を過ごしているわけであり、駄目人間になっていく自分と、常に、ある。それはそれで正解であろうと寝る前に思い直すし、鎌首をもたげる思考を斬ってしまわずに、それを見つめる。それはどんな感情の下にあるのだろうか。

俺は、それは、なんの支配下にあるのか。パーソロンを、スピードシンボリを掘り下げながら。

血統から広がる世界は無限だ。血統は自由だ。褒めるも貶すも俺のさじ加減だ。それをどう受け止めるのもその人のさじ加減だ。読書という当たり前の趣味から学んだことを再確認する。

血統論の構築とは血統から始まるものではないのかもしれない・・・いいや、それは確信に近づいている。俺はどんな角度からそれを斬りつたいのだろう。

[fin]