砂時計のくびれた場所

競馬の血統について語るブログ


チャゲもアスカも歌の中では嘘をつきっぱなしで、自分の想いを隠すために嘘をつく。そんでその嘘を見破って欲しいわけで、なんとも勝手な話である。言葉では伝えきれないから嘘という壁を作り、それを破るという過程を以って真意を伝えようという身勝手で面白い話だ。

チャゲは文章の上で嘘をつくわけで、これは推敲を重ねやすくて相手に伝えようという気にあふれている。けれどアスカは対話の中でそれを求めているわけだから非常に高度な以心伝心を相手に求めているのだわ。しかも自分は何もしゃべらないわけだから難しい男。「何もしゃべらないけれど分かるよな!?」という女の腐ったような男・・・。

よくよく考えると面白い話を書く女性作家というのは必死に伝えようと文字を重ねているのだよねぇ。たまに「分かったから。大体分かったから!」「大体じゃダメなのよ!」みたいな作家もいて、本当に伝えたいことだから話が長くなる。

でも面白い話を書く男性作家は言葉を重ねないのだよねぇ。「ドントシンク!フィーリンっ!」と。雰囲気さえ作ればきっと伝わるはずだからそっちに文字をあてる。

司馬遼太郎を読む度に思うのが「これとラノベの何が違うのだろう」ってことで、明確な違いがあるはずなのにその違いが見えない。どす黒い高校生活の中で「半月」にハマった記憶を辿ってもあれとの違いが分からないのだわ・・・。

そりゃ台詞のセンスなんてダンチの差だし作っている雰囲気も全然違う。けれど本質として根っことして違うところなんてなにもない。これはこの比較に関してだけではなく男の作る物語全てに当てはまるのだろう。

浅田次郎先生も主語抜けで編集に怒られたとかエッセイにあったけれど、誰が何をしたかではなく流れの中でそれが起こったかが重要としているのだろう。場合にもよるけれども「誰が」の部分は雰囲気で決まるわけで、浅田先生の中では主語を書く必要のない話の流れを作っていたつもりだったのでは。

センター現代文の勉強で8割の壁を突破した時に感じたのは「物語の雰囲気を分かっている人がその流れを活かして引っ掛けにきている」ということ。本当に出来た小説ってのは雰囲気を作る要所の脈絡を綺麗に整えていて、良問はその要所で引っ掛けてくる。

読書というのは要所を抑えながら雰囲気を感じなけりゃならない。ヒトラーの読書法に「まず目次を見る」ってのがあって、これもまた目からウロコ。センター現代文の「本文より先に問を見ろ」てのと同じ理屈だ。問題作成者(作家)が重要視する箇所≒雰囲気の要所を先に押さえなさいってことだ。

話を戻すと、音楽も同じでタイトルから何かを感じてから全ては始まるわけよな。「僕はこの眼で嘘をつく」。アスカさんは「こんな眼なんだ!こんな眼なんだぞ!伝わるべ!?」と歌っているのかねぇ。

[追記]

9月28日の殺害事件で微妙に半月が取り沙汰される。カワタケから半月を借りて読みふけり、それを返して1週間後に赤福騒動が起こった。華麗なる一族を読んでる時に山崎豊子先生が亡くなったり、運命の人を読み終わったころに西山事件の資料が提出、不毛地帯を読み終えたころにシベリア抑留の問題で遺骨が届く。なんか変な電波でも受信してるのかねぇ。

[fin]