砂時計のくびれた場所

競馬の血統について語るブログ

そういえば楽園のカンヴァスを読んだ

近頃、血統のことを考えることが少なくなった。そんな時期というかそんな年頃なのかもしれない。ていうか、金に余裕が出来て広い範囲に手を出しがち?

「楽園のカンヴァス」は姉からおすすめされていた小説で、「翼をください」と一緒にプレゼントされそうになりつつも断った一冊。でも「翼をください」はもらった。ちょうど1年前くらいに読んだのかな。そういえば友人3人の結婚から1年が経つんだ。結婚式へ参席するための飛行機内(及び空港での待ち時間)で読んだんだっけ。

そうだ、羽田空港のカフェでカレーを食い終わった後に読み終えたんだ。読み始めたのは地元の空港のトイレ近くの席で、前の席には出張らしき二人組のサラリーマンがいた。なんだかとても懐かしい。

Wikipediaを見直すと、原田マハって原田宗典の妹だったのか。知っていたのか知らなかったのか、俺が初めて読んだエッセイも姉からプレゼントされた「少年のオキテ」だった。中学に入るか入らないかの頃だ。母には北方謙三三国志を読み終えるたびにねだっていた頃。

読書家一家だったから、末の長男坊が自然と小説を読み始めたのが面白かったのかもしれない。母からも姉からもひっきりなしに小説をプレゼントされたり勧められたりもしたな。蒼穹の昴も一度は断ったんだが、結果的に、一番浅田次郎にハマったのは俺だった。

なお原田宗典覚醒剤大麻の所持で現行犯逮捕されている。

面白い小説だった。楽園のカンヴァス。

不満があるとすれば重くないところ。軽快に話が進むから退屈はしないけれど、深い感情を引き出される様な物語ではなかった。それはミステリーとしてのネタ明かしを含め。兄貴のエッセイの方がよっぽど読みやすく、軽快で、愉快で、記憶に残るインパクトがあるな。

阿部くんに「アベック」ってあだ名をつけた話とか、「長寿の家系だからタバコで余命を調節しているんだ」と吐いた父親と、それと同じようにタバコを吸い続ける自分の話とか、学校のトイレでウンコしているのがバレた友人が「出物腫れ物所嫌わず」をうろ覚えで言い放って謎の呪文化し、ガキ大将を退散させた話とか。

もちろん明らかすぎる根本的な違いがあるわけだが、読み物として考えるなら違いはない。

司馬遼太郎もそうだが、生産性のない知識の面白話ってのは良い。でもそこには重さがあるべきであり、軽快さが目立ちすぎている。もう少し読み応えのある箇所を作って重さを表現してもよかったんじゃないかと。緩急とも言えるかね。

かといって司馬節のような脱線をするわけにもいかないしねぇ。この物語の中でどうやって軽重の緩急を施すべきだったかな。こうして考えてみると歴史ものって何でもありだよなぁ。オタク文化にまで侵略されているのはどうかと思うが、性格をデフォルメして面白い人たちしかいない。

これは戦国以前からの傾向だから仕方ないよね。日本史にだけ許された特権として、偉人への悪ノリがある。風刺とかでもなんでもなく、キャラクターにして楽しむことが許される。

前衛美術にそれが許されるのかどうか・・・それを日本人として試してみるのも良かったんじゃないのかとも思う。原田マハは美術畑の人らしいから、その分だけ固さが出てしまったかも。小説家として歴史へアプローチした司馬遼太郎とは違う。

だが、馬券ファンから血統論者へ進むことと、生産者がその道なりに血統を論ずるのと、果たして問題やギャップはあるものかは。馬券ファン出身者から実践的な血統論は出ないだろうが、デフォルメして繁栄させることは出来る。

美術畑の原田マハにしか書けない前衛美術ミステリーがあったはずである。それがこの作品にあたるのかどうか、それが最大の焦点だろう。それはよく分からないので、他の作品を読み漁ろう!

マニアックに踏み込みすぎて読者をやや置き去りにしちゃうけど、そこら辺の配慮を忘れずに愉快で重たく、つまり読み応えがあって、ちょいと悪ノリもしながら謎で面白い知識を披露してくれる・・・そんな作品がその中にあればいい。

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