「リコリス・リコイル」を視たら、「振り返れば奴がいる」を視たくなりました。ED曲の挿入的に・・・。
「振り返れば奴がいる」はFODプレミアムにて視聴可能です。2週間の無料期間がありますので、期間内に解約することで無料となります。「振り返れば奴がいる」を視たいと考える人は、ご利用をおすすめします。
You Tubeにある違法なものを視聴しないようお願いします。法的に当然のことではありますが、再確認願います。また、誤ってリンクを踏んだ際に、違法動画はED曲挿入後に無音となるトラブルを確認しています。ED曲である「YAH YAH YAH」には権利的な価値もありますので、改めて、FODプレミアムでの視聴をおすすめいたします。
YAH YAH YAH
「振り返れば奴がいる」はC&Aの第二黄金期を象徴する名曲その2である「YAH YAH YAH」を主題歌としたドラマです。(第一黄金期はデビュー時)
もう一つの名曲である「SAY YES」はドラマの結末を変えた曲としても著名ですが、今回の「振り返れば奴がいる」は俳優とスタッフが結末を変えたドラマとしても知られています。
司馬の死、あるいは生
あまりにも有名でネタバレにすらなりませんが、最終話のラストシーンで司馬は平賀に刺されます。その生死は公式に決められてはいません。
司馬を演じる織田裕二は、司馬を殺すべきであるとして、結末の変更を申し出たそうです。スタッフもそれに賛成し、知らせを受けた脚本の三谷幸喜氏が5分で新しいラストシーンを書きました。
この経緯からして、少なくとも織田裕二氏の中では、司馬が死ぬことで物語が終わっています。逆に三谷幸喜氏は司馬を殺さない脚本を上げていたようです。
僅か数カットを残した状態、クランクアウト直前の変更です。ドラマの最終話における全体の流れは変えていないと見てよいでしょう。ですので、司馬が死なない脚本におけるラストシーンもおおよそ想像できます。
まず、司馬はドクターを辞めることがないでしょう。石川の死を背負って生き続けます。かといって自らの生き方が変わることもありません。27歳の独立した立派な大人が意志を曲げることはないのです。
織田裕二氏と司馬
織田裕二氏は司馬であり、司馬として司馬を見て、殺すしかないと判断しました。
これまでもこれからも、私の個人的な感想に留まりますが、石川の死は司馬の人生を定めたのです。変わることの出来ない司馬という大人を、そのままに受け入れられる世界はないと断定してしまった。
司馬の人生にもはや救いはない。彼はもう救われることがない。であれば、司馬の価値観からして、司馬は死ぬしかないのです。笹岡と同じように。
石川の死
彼の死はスキルスの発覚より定められています。
石川はよく言います。「認めない」と。あれは求愛行動です。司馬に対して「俺を認めろ」と言っています。司馬は歯牙にもかけません。
その親愛はとことん歪んでいき、最終的に司馬を貶めること、死ぬことが定められた自身と同じ場所へ落ちることを望むようになります。
彼は知っています。司馬の研鑽、ドクターとしてあり続ける執着を。その在り方を奪ってしまえば司馬は死んだも同然です。彼はそれを望みました。
しかし司馬の在り方の根源を知ることで、その結実を望まなくなりました。彼の復讐劇は中途半端に終わり、一応の結実を見た後に血を吐きます。
愛の結実
石川は手術を前にして司馬より伝えられます。
「はっきり言う。今の症状じゃ助かる可能性は、ゼロだ」
「それを俺が10%まで引き上げる」
「お前は20%まで上げてくれ」
司馬と石川の配分は同じ10%です。石川は対等の関係となったことを喜び、柄にもなく握手を求めます。しかし司馬はそれを手術の成功まで保留しました。これは「まだお前と俺は対等じゃない」と告げています。
手術は成功し、司馬より握手を求められ、石川はそれに応じます。それは石川の真なる願いの結実であり、彼らは対等の関係を作ることに成功したのです。これは司馬にとってもまた幸せなことでした。
そして、石川は愛に満たされて死亡します。
殺人鬼の司馬
石川の死は司馬にとって大きな事件でした。物語的に見ればベジータと悟空くらいに友誼を結んだというのに、結果的に石川は死んでしまったのです。
これは不幸な事故であるかというと、物語としてはそうでありません。石川を活かし続けたのは「司馬に認めてほしい」という一心でした。それが満たされてしまうと、石川は死んでしまうのです。
これは究極的に、司馬と対等となった人物は死んでしまうということです。生命として死んでしまったのは石川ですが、中川部長とて司馬とガチンコ対決するために自らの地位を賭けました。
司馬というのはそういった縁しか築けない欠陥を持ちます。他者を傷つけることでしか関係を築けず、致命傷を与えなくては深い関係を築けません。その象徴的な存在が石川でした。
中川部長の悲哀
石川をカンザスから呼び寄せ、手ごまの司馬がそれと衝突する。手ごまが増えるなら、それも良し。扱いやすい石川が司馬を放逐するならば、それも良し。万全の構えです。
ところが司馬は石川を踏み台として増長を繰り返します。踏み台となった石川は病に倒れました。司馬のコントロールは不能となり、石川は手ごまとして役立ちません。
これだけでも頭を抱える事態ですが、それに拍車がかかります。司馬の増長は留まることなく、石川に至っては自分を司馬へけしかけます。
平賀のよく決まる刺し
最終話で司馬を一刺しした平賀ですが、その前に司馬を階段から突き落としています。これは間接的に中川部長を刺す一手となりました。
自らの弱点(トラウマ)を露呈させることとなり、麻酔科医がチクチク刺してくるようになりました。それとは別に、司馬も急所をえぐってきます。中川部長を追い込んだのは平賀とも言えます。
そのため、平賀が人身御供となった司馬の策略は中川部長にとっての復讐ともなりました。中川部長は金銭という賄賂こそ受け取りませんでしたが、「平賀による憂さ晴らし」という賄賂は受け取ったのです。僅かな賄賂ではありましたが、中川部長の溜飲を下げる効果はあったでしょう。
中川部長は平賀へこう話していました。
「素早いが、決して雑じゃない。天才だね、彼は」
司馬の策略を評価する適切な言葉です。
黒い刺客
急遽として決まったラストシーン。この成立がなされたことこそが、物語の優秀さを示します。
平賀以外に司馬を刺すことが出来る人物がいないのです。石川の手術が成功したことで病院全体の司馬を見る目が変わっています。それに対して司馬も友好的に接しました。
その後に石川が死亡し、病院のスタッフ全体が落ち込みます。司馬が蘇生に尽力したことは主たる人物全てが知っており、司馬を責めるものなどいません。
司馬を刺すことが出来るのは病院外の人物に限られ、病院外の描写などありません。そこらの通り魔に刺させるわけにもいかず、織田裕二氏の提案は普通なら断られるでしょう。
それが成立したのは完璧な退場劇を演じた平賀がいるためです。用意されていたかの様な人物であり、変更後のラストシーンこそが正道とまで思えます。織田裕二氏の提案は平賀の存在が根底にあったのかもしれませんねぇ。
それにしても急激にすぎるラストではあり、シーンとしてはいくらか布石は打っておきたかったのかもしれません。
愚かな奴ら
脚本が三谷幸喜氏ということで、喜劇としての見方が勝ります。
司馬の行動や言動を深く考える人物は不在であり、誰もが表面をさらって非難します。そうした流れにおいて、最も秀逸なのは予算委員会での証人を星野(女性の営業)へ求めたシーンです。
司馬を糾弾出来るなら、何でも良い。そうした立場を明確にした石川の清々しさが際立ち、それを止めに入る峰と稲村の滑稽さもまた素晴らしい。峰と稲村は石川が司馬より高潔であると信じており、石川もまたそう信じています。
視聴者は司馬の孤高を理解しているし、石川・峰・稲村は3バカのポジションを確立しています。石川の焦燥は理解出来るにしても、峰と稲村の愚かさには何も言えません。
そうして予算委員会にて敗北を喫する3バカ。あいも変わらず司馬を非難するのですが、彼らがするべきは司馬に嵌められた平賀の救済なのです。だのに平賀のことを口にするでもなく、純粋な悪意を司馬に向けるばかり。
司馬を殴る石川、石川を物理的に止める稲村、石川へ愛をささやく峰。平賀は予算委員会の終わった会議室で独り泣いています。
極まった3バカをシリアスとし、平賀を華麗に退場せしめる、演出を務めた若松節朗氏の手腕が光る第9話でした。
男同士を尊ぶ
驚くほどに男が女へなびかないドラマです。
異性より影響を受けて在り方を変えるのがラブストーリー。ラブはキャッチーでありますから、ラブストーリーではないドラマにもラブが存在しがちです。本作にもラブは存在しますが、ダブルヒーローはお互いしか見ていません。
人間同士としての影響すらありません。石川は峰の意見を重視せず、愛情を放置します。司馬は大槻の親愛を受け取らず、内村の恋心を認知しません。
石川は司馬の手術を拒否し、それを峰が説得します。愛を伝えられることもあったし、いつも隣にいた後輩です。その説得に頷かない石川を翻意せしめたのは、峰の発した「司馬」「助かる」のワードでした。
峰を遣わせて司馬を呼び出し、石川は命乞いをします。司馬はその言葉を受け容れ、共闘を提案するのです。手術後に石川は峰より、手術前に司馬と何を話したのかを尋ねられます。石川は「うん」と言葉を濁すばかりで、峰へは何も語りません。
このことから考えられるのは、石川が抱く峰への思いがまず1つ。「すまない、話したくないんだ」と真摯に応えるでもありませんから、石川は峰に心を開いていないのです。実際に石川から峰に絡むシーンは多くありません。
もう一つは、他人へ簡単に話すようなやり取りではないということです。あの会話は司馬との新たに築いた関係そのものであり、それは容易く口にするようなものではないのです。つまり、物事として重いのです。
こうした重いやり取りが異性間で行われていないのが「振り返れば奴がいる」というドラマです。
共依存の中川と司馬
司馬が心を開いた人物の筆頭に石川があります。次に中川部長がランクイン。
中川部長からすれば、自身の弱みを握る司馬と関係を続けるしかありません。司馬からすれば、自身の表現を押さえつけない中川部長の元は居心地が良いでしょう。
司馬は増長を続けましたが、その実、中川部長を保護することをやめていません。野心はないのです。釘は刺すことは多くとも、その地位を追い落とす意思はありません。自身の表現を助けることのみを要求しています。(医療機器の導入)
その要求に応えてくれれば、司馬は中川部長の強力な味方でありつづけます。司馬が名を売るほどに、肩書が上がるほどに、重要な手術における発言権は強くなるのです。中川が手術へ参加する理由がどんどん薄くなります。
それに関しては中川部長は協力的であり、司馬の庇護者としてあり続けました。その関係はwin-winと言って差し支えなく、どちらかが損をするという類のものではなかったのです。
だからこそ長続きした関係ですが、中川部長からすれば一方的に弱みを握られていた状況です。手術ミスの身代わりを担わせ、トラウマにより出来なくなった手術の代打を任せています。司馬が増長していったように、win-winと言えども司馬に優勢ではありました。
描写こそありませんが、この状況を脱却するために石川を招聘した様子があります。米国帰りの優秀なドクターという肩書を持つ石川には部長の代打という説得力があります。手術の代打を任せられる人材は中川部長からすれば手が喉から出るほど欲しかったでしょう。
喫緊の問題は手術の代打ばかりであり、これさえ解決すれば司馬とは対等に取引が可能でしょう。つまり、中川部長とて司馬の放逐は考えていなかったと思われます。最終話で司馬と石川を評した言葉は心底からのものでしょう。
中川部長は基本的には善人であり、小物であり、最も司馬と良い距離感で関係を築いていた人物と言えます。
司馬の終焉
司馬は司馬であるが故に、司馬の価値観を引きずった織田裕二氏に殺されました。
それは司馬を救うための土壌が天津楼病院にあって、それが果たされなかったがためです。司馬という人間が築くことの出来る関係に限界があり、それが露呈した舞台でありましょう。
仮に彼の生存が許されるとすれば、彼ら彼女らはもっと早くに出会わなければなりませんでした。司馬の性格を変える事件が起こる前に、です。
その世界線は「リコリス・リコイル」に見られます。逆を言えば、たきなと千束が学生の時期に出会わず、成熟した人間となって出会った世界線こそが「振り返れば奴がいる」でしょう。
緩い条件で他者を認め、受け容れられる柔軟性は若人の特権です。司馬と石川がその若さの中にあったならば、彼らはさっさと認め合い、友誼を結び、長きに渡る共闘を生活に置けたのではないでしょうか。
それはたきなと千束にも同様のことが言えます。頭が硬く、他者と強くぶつかることでしか分かり会えない大人同士として出会っていれば、たきなが千束を理解するまでに時間を必要としていたでしょう。
その時、千束の制限時間を解決するだけの関係性はない。石川と同じように千束は死亡していたと思うのです。
たきなが司馬と同様に死亡するかは、解釈によるでしょう。
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