砂時計のくびれた場所

競馬の血統について語るブログ

2022年凱旋門賞への思い

凱旋門賞について考えると、文化が違うというか、競馬場が違うなぁと感じます。

Galileoという大種牡馬があって、そこから秀逸なスピードの抽出してきて、今があるわけですが、やっぱね、サイレンススズカは種牡馬として長生きすべきだったんでないかって、Galileoとその産駒を見るたびに思います。

そのくらい、Miswakiのスピードの質は素晴らしい。

 

日本競馬の特徴に、Mr. Prospectorが中距離血統として大成したということが挙げられます。それはMr. Prospectorによるスピードの表現が軽視されているということとニアリーの関係です。

日本競馬において、Mr. Prospectorのスピードは軽薄というべきでしょう。その点はおそらく海外においても同様であったはず。これが問題というほど問題とならなかったのは、とある日本人が変態配合を組んで、それを成功させたことでしょう。

少なくとも大レースにおける結果は先駆けています。エルコンドルパサーはMr. Prospectorという血統の在り方に、大きな石を投じたのでした。

Mr. Prospectorという軽薄なスピードはSpecialとの関係を保つ限りにおいて、上質足り得るのです。

 

日本はエルコンドルパサーという至宝を所有しておきながらも、その配合形を実現させることが出来ませんでした。その筋道が立てられたのは本当にここ数年の出来事であり、エピファネイア×キングカメハメハの成功はエルコンドルパサー登場以来の悲願であったとも言えます。

この構想は社台グループにおいてもあったと思いますが、「日本競馬に適応するのか」という点において、ギャンブルスタートは切れなかったものであったと思います。特にノーザンファームは売れる馬を配合しなきゃいけないわけですし。

その点で文化が違うということは悲しいことで、悲願ともなる凱旋門賞制覇のみを志す馬作りは出来ません。しかし売るための馬作りは日本競馬としての在り方を示し続け、優れた血統を市場に送り続けました。

 

私はタイトルホルダーとデアリングタクトをめちゃくちゃ評価していて、それは岡田氏を評価することと同じになりますが、一番主張したいのは「父はいずれもノーザンファーム生産」という点。

血統において父を大きく評価することは多くありませんが、ボトムラインにおける「最後のキー」としてあるのは間違いなく父の存在です。仮にタイトルホルダーが凱旋門賞を勝ったとして、4分の1くらいはノーザンファームの、吉田一族の功績として認めるべきだと思います。

どちらかと言えば私はアンチノーザンファームで、無関心寄りのフラット。しかしバロクサイドから続くこの一族は全力推しで、感情論でしか接することが出来ません。

ダイナカールが好きとかエアグルーヴが好きとかアドマイヤグルーヴが好きとかドゥラメンテが好きとかルーラーシップが好きとか、そういう話ではなく、この軌跡、歴史が愛の対象です。

ドゥラメンテなぞは、キングカメハメハとアドマイヤグルーヴの仔でしかないのです。そこから美点を表現し得たということが全てで、それが歴史の尊さなのです。

 

まぁ、タイトルホルダーは足りないでしょう。

相手関係や馬場など色々ありますし、タイトルホルダーの底なんてのは見えた気もしません。それでも、凱旋門賞勝ち馬の血統表かと言えば、ピンと来ません。

軽薄なまでの上質なスピードと、鈍重とまで言うべき上質のスタミナ、この融合が凱旋門賞を制する条件であると考えます。中距離最強の日本競馬はこの融合を志す必要がありません。

中距離血統というのは最強マイラーと最強2400mがあればパーツは足ります。軽薄なスピードとか、鈍重なスタミナとか、そういうのはピーキーで扱いづらいのです。そのピーキーさの中で戦い続けたのが欧州のホースマンで、凱旋門賞は欧州のビッグレースに数えられる舞台です。

そんなのを日本競馬のスターで勝とうってのは傲慢な話じゃありませんか。けれど、競馬ファンを魅了するロマンでもあります。

 

カーレースなんかと違い、競馬には生命へ携わることが求められます。最近の言葉で言えばSDGsで、サラブレッドにおいては多様化が必要です。

だから「日本の競馬場も世界基準にしよう」ってのは糞みたいな話で、基本的に競馬場は各々がグラパゴスで良い。スーパーな理想論を述べるならば、全てのサラブレッドの生命が賄われるだけの多様性が存在すべきです。

だからこそ、本田技研がF1で無双する様な話は前例としてありえず、日本競馬による諸外国のビッグレース制覇は大いなる意義を秘めます。ただし、それは競走馬に関わることではなく、人間、ホースマンの問題でしかありません。

つまり、多様化において最も難しい尊重という問題です。日本競馬は日本競馬の価値を示し続ける必要があり、凱旋門賞挑戦はその一環といえるでしょう。

凱旋門賞じゃケチョンケチョンにやられた馬だが、ジャパンカップではその馬に歯が立たない。そんな構図は作りづらいのです。傲慢だろうと、日本から最強馬を送り出し、日本競馬を示さなくてはなりません。

 

悲しいことにそれは一方通行で、そりゃまぁ、欧州競馬の歴史も安くありませんしね。彼らが歴史を紡いできて、文化を発展させてきたのですもの。

その割にはオイルマネーに屈し過ぎな気もしますが、譲れるものも、譲れないものも、譲らざるをえないものも、色々あるでしょう。

いつかは欧州や北米から「俺たちの競馬の価値を示すのだ」とジャパンカップへ最強馬が送り出されるといいですね。だからこそ、凱旋門賞を勝てる馬を送り出すのではなく、日本の最強馬を送り出す必要があります。

送り出される馬の生命や在り方が第一となされない面もありますが、意義を見失わない限りにおいて、それは認められるべきでしょう。

 

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